I wish I could have a flower...

というわけで。

最近超あっつい・・・

あ、「世界の果てにイッテQ」すげぇ好き♪

イモトも宮川大輔もオセロ松島もみぃ〜んな好き♪♪

だって超おもしろいんだもん!!!

あ、高田純次のように生きていけたらいいなぁ・・・

あの超いいかげんが最高だよね!!

まじうらやますぃ・・・


さてさて。

がらっと温度が変わります。

いつも色々考えさせられるコミュがあるの。

読んでいるといつも涙が出そうになっちゃう。

というわけで、今日はそこから記事を拝借しました。

こういう記憶って、忘れられちゃいけないよね。


"We burned to death 100,000 Japanese civilians in Tokyo
— men, women and children."

「われわれは、10万人の東京の一般人を焼き殺した−男も女も、そして、子どももね。」

2009年7月6日、午前5:30分
1人の老人が、アメリカ・ワシントンの自宅で死んだ。

彼の名は、ロバート・マクナマラ(Robert S. McNamara)。
享年93歳。

アメリカの実業家であり、政治家だった。

国防長官として、
ジョン・F・ケネディやジョンソン政権に従事し、
冷戦下の核開発競争、ベトナムへの軍事介入を行った。


そして、彼の最初の戦争の「功績」は、
第二次世界大戦にさかのぼる。

彼は、統計や数値解析を駆使し、
いかに効率的に、低コストで
効果的な攻撃を行えるかを研究、立案、
そして、実践した。


軍事、民間を問わない無差別爆撃の信者
カーチス・ルメイ司令官のブレーンとして、
日本の67都市を焼き払い、
100万人を焼き殺した。

特に、1945年3月10日の東京大空襲では、
一晩で、10万人もの人々を焼き殺した。


New York Timesの当時の記事は、
そのときの様子を次のように記述している。

「東京の中心部が消え去った。

 灰と、まだ炎がくすぶる瓦礫によって、
 一面が埋め尽くされていた。
 
 24時間前までは、そこには、大きな工場や小さな工場、
 そして、住宅が立ち並ぶ日本の首都の中心地だった。」
(CITY'S HEART GONE;
  Not a Building Is Left Intact in 15 Square Miles,
Photos Show A MILLION HOMELESS LeMay Says
Purpose Is Won if B-29's Shortened War by One Day
/March 11, 1945, Sunday)


そして、そのときの体験を、
学徒兵で被災処理班として働いていた須田卓雄さんは、
1970年12月29日付の朝日新聞の中で、
次のように、書いている


 花があったら

昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から
三日目か、四日目であったか、
私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の
死体取り片付け作業に従事していた私は、
無数とも思われる程の遺体に慣れて、
一遺体ごとに手を合わせるものの、
初めに感じていた異臭にも、
焼けただれた皮膚の無惨さにも、
さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、
路地と見られる所で発見した遺体の
異様な姿態に不審を覚えた。

頭髪が焼けこげ、
着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことは
いずれとも変りはなかったが、
倒壊物の下敷きになった方の他は
うつ伏せか、横かがみ、
仰向きがすべてであったのに、
その遺体のみは、
地面に顔をつけてうずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、
なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の
十本の指には血と泥がこびりつき、
つめは一つもなかった。


どこからか来て、もはやと覚悟して、
指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、
その上におおいかぶさって、
火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が
母の乳房の一つをつかんでいた。

だが、煙のためかその赤ちゃんも
すでに息をしていなかった。


わたしの周囲には
十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場をはなれ、
地面にはう破裂した水道管から
ちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、
母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。

若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、
息の出来ない煙に巻かれながらも、
苦痛の表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。

美しい顔であった。

人間の愛を表現する顔であったのか。

だれかがいった。

「花があったらなあーー」

あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。

私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

          • -

その後、マクナマラの関わったベトナム戦争では、
アメリカ軍は、何百万人のベトナム人の上に枯葉剤をまき、
40万もの人々の健康を害し、死に追いやり、
そして、生まれてくる50万の赤ちゃんの身体を侵した。


マクナマラは、後年、次のように語っている。
「われわれは、10万人の東京の一般人を焼き殺した−
 男も女も、そして、子どももね。」
 

 ルメイは、「もし、俺たちが戦争に負けてたら、
  俺たちは、みな、戦争犯罪人として告発されていただろう」
 そう、言っていた。
 
 そして、私は、彼の言うとおりだと思っている。
 
 彼も…そして、私も、
 …戦争犯罪者と同じことをしていたんだ。」



2009年7月6日、午前5:30分
1人の老人が、アメリカ・ワシントンの自宅で死んだ。

彼の名は、ロバート・マクナマラ(Robert S. McNamara)。
享年93歳。

アメリカの実業家であり、政治家だった。


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